絵本の時間

幼い頃、読んでもらった絵本。内容はおぼろげになった本もありますが、忙しかった両親が寝る前に読み聞かせをしてくれる、短いけれど温かい時間は、一生の宝物です。そんな記憶を綴り、自分の子どもたちにも幸せの記憶を贈りたいと願うブログです。

ラチとらいおん

ラチとらいおん (世界傑作絵本シリーズ)
ラチとらいおん (世界傑作絵本シリーズ)
福音館書店


あらすじ
 ラチは世界で一番弱虫な男の子。犬も怖ければ、暗闇も怖い。お友達も怖いというのだから、外で遊ぶなんて恐ろしい!お部屋で絵本を読んだり、絵を描いたりして過ごしています。ラチのお気に入りは一枚の「らいおん」の絵。こんな「らいおん」が側にいてくれたらなと思います。
 翌日、目が覚めると、なんと部屋には赤い小さな「らいおん」が!ラチは、何の役にも立たないと大笑いしますが、「らいおん」は片手でイスを持ち上げてみせます。そして、強くなる秘訣を教えてくれるのです。毎日体操して、少しずつ体を鍛えたラチは、ポケットに「らいおん」を入れて、外の世界へ出かけるようになりました。犬が怖くて泣いている女の子を助けたり、暗闇に立ち向かったり、いじめっ子にとられたボールを取り返そうと奮闘したり、「強いラチ」に成長していきます。
 ラチは「らいおん」にお礼を言おうと、ポケットを探ります。すると「らいおん」はいなくなっており、代わりにりんごが一つ入っていました。
 急いで帰ったラチが見つけた「らいおん」の手紙には、「きみを自慢に思うよ」と別れの言葉が書いてあるのでした。


絵本の思い出
 幼い頃のkoli太郎は「もやしっ子」でした。外に遊びに行けば「転んだーっ」と泣いて帰り、幼稚園や小学校に行っては「いじめられたーっ」とべそをかき。
 喘息持ちで、あまりにも大事にしてしまいすぎた母の責任かもしれません。
長男ということもあり、甘やかされたお坊ちゃんだったわけです。小学校1年生の時、学校の帰り道で、同じクラスのRくんに馬乗りになって殴られ、近所の人が助けに入るということがありました。
「ぼく、走るの遅いし、字を書くのもヘタだし、見ていてイライラするんだって。イライラってどういうこと?」
学校や相手方のお母さんから話を聞くと、席替えで同じ班になったRくん、同じように走るのも遅くて、字を書くのも苦手で、koli太郎とは似たもの同士。周りから一緒に冷やかされたり、からかわれたりすることもあったようなのですが、彼は一生懸命に立ち向かっていたそうです。それなのに、泣いてばかりで一向に抵抗の姿勢が見えない「もやしっ子」koli太郎にイライラしてしまったようだったのでした。
「痛かったね。Rくん殴っちゃイケないね」
と、受け止めつつ、Rくんはきっと、koli太郎にもっと心が強い人になって欲しいと思っていること、一緒に頑張ろうという気持ちを持っていることをお話ししました。


「けれど、ぼく、涙が出てきちゃうんだ。何か言い返そうって思うけれど、怖くなっちゃうんだ」


うん。分かる分かる。だって多勢に無勢。
母は「ラチとらいおん」を読んであげました。
いつもならニコニコして読み聞かせを聞くkoli太郎ですが、この時ばかりはとても神妙でした。そして、怒ったように
「だって『らいおん』いないじゃん。」と。


母は我慢強く話しました。koli太郎のポケットに「らいおん」はいないけれど、パパやママやRくん、koli太郎を「がんばれ」と応援している人の思いが、ちゃんと入っているのだってコト。みんなの応援が、きっとkoli太郎を支えてくれること。
そして、「いつでも一緒に謝りに行ってあげるから、ケンカしても大丈夫。」と話しました。


しばらくたった休日。近くの公園に出かけていったkoli太郎。ズボンの膝を破り、どろんこになって帰ってきました。でも、泣いてはいません。目がキラキラしています。
「ぼく、戦ってきた」と言います。
koli太郎は、カエルをおもちゃの鉄砲で撃って遊んでいた、当時6年生の男の子2人と「ケンカ」をしてきたのだと言います。「カエルの気持ちになって」と足にしがみつき、突き飛ばされたのだと言います。そして、死んでしまった「カエル」のお葬式をしたいと言いました。
私はスコップをもって、手をつないでkoli太郎と公園に行き、かわいそうな「カエル」をスコップにのせ、わが家の庭に埋めました。たくさんの野の花、庭に咲くバラをお布団にして・・・。
何かのために、誰かのために「戦う勇気」は、koli太郎にもある!


「ぼくのポケットには『らいおん』がいるんだよ。見えないけれどね」


koli太郎の言葉に、母も『らいおん』が欲しいなぁと感じました。見えないけれど、支えてくれる人、共感してくれる人、応援してくれる人、叱咤激励してくれる人、いろんな人の思いがポケットにあることを気づける私でありたいと思いました。

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もう ぬげない

もう ぬげない
もう ぬげない
ブロンズ新社

あらすじ
「ぼく」は、お風呂に入るために1人で服を脱ごうとします。けれど、首のところが頭につかえて、どうしても、脱げない。いろいろ試行錯誤したけれど、脱げなかったモノで、このまま脱げなくてもいいんじゃないかと考え始めます。脱げなくても、きっと立派な人になれるとか、同じように脱げない子どもと友だちになったらこんな風に遊べるかもしれないとか。それもいいかも!なんて一時は思ったけれど、前が見えないのはやっぱり困るのです。だから、どうにか脱ごうと試みた結果・・・・上着はそのままで、今度はズボンが足のところで脱げなくなり、床に転がってしまいます。(挿絵が最高です!)
 と、お母さんが何やってんのよと言わんばかりに、「ぼく」を小脇に抱え、お風呂に連れて行き、あっという間に服を脱がせてしまいました。
一件落着・・・・。と思ったら・・・・。
 お風呂から上がった後、着替えをしようと上着に頭を入れたら・・・
今度は「頭が出ない」・・・。


絵本の思い出
koli次郎が何やら真剣に悩んでいます。「?」のぞき込むと、『もう脱げない』の絵本を開いていました。
母「どうしたの?」
koli次郎「これ、なんでボタン外さないんだろ?」


そうなのです。ボタンを外せば、きっとすんなり服は脱げるし、着られたはず、笑。
そして、挿絵のおもしろいことと言ったら!
何度見ても、吹き出してしまいます。
まったくもって、大人としてはかわいらしい笑えるシーン。
きっと、誰にでも覚えがあるから笑えてしまうのですよね。
けれど、koli次郎は真剣な顔です。
「ぼくも、こうなったときあるよ。笑わないで!」
koli次郎は、まるで自分の失敗を笑われたかのように感じているらしく
「全然おもしろくないっっ!」
と言い切りました。


小さな自尊心。


「ぼくもこうなったし、Aくんもプールの着替えでこうなったよ。Bちゃんもお着替え上手にできないよ。ぼくたちを笑わないで!」


いつの間にか、幼稚園児代表koli次郎に変身していたのでした。
「ちゃんと、うまくできるよ。みんな。教えてくれたらいいんだよ。笑わないで。」
ちょっと涙ぐんでいます。
「ごめんね。」
と母は謝りました。


とても、おもしろい絵本で、思いっきり笑えると私は思っていたし、実際、この絵本を初めてkoli次郎に読んで上げたときは、koli太郎とちびkoliと一緒に大笑いしていたのですが、いつの間にか「頑張れば、教えてくれれば、いつかきっと出来るんだ」と言う気持ちを踏んづけられるような思いをしていたのかなぁと思いました。それは、koli次郎の自尊心と、仲間意識が大きく成長した証拠。


 ごめんね。koli次郎。


「じゃあ、どんなふうに教えてあげる?」
と聞くと
「絶対ぼくは笑わない。『ボタンを外すとうまく出来るから、やってごらん』って言うの。それでも出来なかったら、『ボタンを外してあげようか?』って言うの。」


母はちょっと考えました。これって、「ノーマライゼーション」だねって。
障がいのある方、お年を召した方、そして小さな子どもに限らず、私たち「人」はオールマイティーではない。得意なこともあれば、不得意なことも人それぞれある。「できない」ことが特別視されず、社会の中で尊重されるのが当たり前だってこと。つまり、この場合は不得意なこと、できないことを他の人に助けてもらうか、自分の力で不足はあったとしてもやり遂げるかは、本人がまず決めるのだということ。自分の歩む道は自分で決められるのは、すべての人にとって「当たり前」でなくてはならないのです。


 私には痛い記憶があります。駅で車椅子の方が荷物を膝にのせて、エレベーターのボタンを押しているのを見かけました。ドアは開きましたが、荷物が邪魔して、なかなか前に進めません。ドアが閉まってしまうのでは?とハラハラし、延長ボタンを押し、親切のつもりで車椅子を押してエレベーターに乗せて上げました。すると、お若い女性でしたが
「結構です」
と、私を真っ直ぐに見ておっしゃいました。
親切心からやったことだったので、その反応にビックリし、次に居心地の悪い嫌な感情がわき起こってきました。


「せっかく、助けてあげたのに・・・」


もう何年も経つのに、なんだか釈然としない思いがありました。


それじゃ、なんと言ったら良かったのかなぁ、と。


koli次郎の言葉が、突き刺さります。
やり方を教えて、それでも出来なかったら「手伝いましょうか?」と相手に聞く。
言われてみれば、当たり前かもしれませんけれど、相手の意思を最大限に尊重する言葉だなと思いました。


私は、あの時何といえば良かったのか?
自問自答します。


「お困りですか?」「お手伝いしましょうか?」だったのかな?


「じゃあ、ママもkoli次郎が何か出来なかったり、困ったりしていたら、そうするね」とお話ししました。koli次郎は、真面目な顔で「うん、それでいい」と頷きました。


単純におもしろい、誰にでも覚えのある絵本。けれど、その絵本を通して、とても「当たり前」のことを、たった5歳の子どもに教えられた母でした。

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ぼくを探しに


新装 ぼくを探しに
新装 ぼくを探しに
講談社


あらすじ
「ぼく」は、「何かが足りない。だからぼくは楽しくない」。「ぼく」は「かけら」を探して転がり続けています。合わない形や大きさの「かけら」を無理に欠けた部分にはめようとしても、うまくいきません。時には、「かけら」を壊してしまうことも。それでも「ぼく」は転がり続けます。欠けているのでうまく転がれず、立ち止まってしまうことがあるけれど。「ぼく」はみみずとおしゃべりしたり花の匂いをかいだり、蝶を見つけたりしながら、とにかく転がっていきました。
 ある日、「ぼく」はぴったりな「かけら」を見つけます。心から喜ぶ「ぼく」。でも「ぼく」は言います。「ぼく」は「ぼく」で「かけら」は「かけら」と。もしかしたら、ぴったりだとしても「きみがそうしたくないかもしれないしね」。
 ぴったりだけれど、「かけら」は「かけら」。「ぼく」の欠けた部分ではない「かけら」という存在です。「やってみたら」と「かけら」。それで、2人はピッタリと重なり、欠けたところのない「まん丸」になって転がっていきます。欠けた部分がなくなった分、とても速く、スムーズに転がります。だから、もう立ち止まることもありません。もう、何かをじっくり見ることもありません。だれかとおしゃべりすることもありません。
 「ぼく」はかけらと一緒に転がることをやめます。前のように立ち止まることのできる欠けたままの「ぼく」として、転がることを選びます。

絵本の思い出
 ずっとずっと昔、私が高校生だった頃、この絵本をテーマに読書感想文を書いた友だちがいました。彼女とは中学校から部活動が一緒で、時々一緒に帰ることもありました。特別仲が良かったというわけでもないのです。けれど、とても心に残っている人です。


 読書感想文コンクールの代表に彼女が選ばれたとき、私はとても悔しかったのです。だって、中学校の頃、私が選ばれない時はなかったから。だから、余計に気になって、彼女の選んだ「ぼくを探しに」を本屋さんで立ち読みしました。
 衝撃だったのは、これが絵本であったと言うこと。高校生の読む本としては、ビックリなくらい短い。そして、感想文の文字数より、絵本の本文の文字数のほうが少ない!この本で代表に選ばれるような感想文を書けるとは!


 けれど、その後、私はさらに衝撃を受けることになったのです。


 彼女は医者の娘。進路希望調査で某大学の『医学部』を希望していた。何の不思議も疑問もまわりの人は感じていなかったし、彼女も感じていなかったはずだと思う・・・。少なくとも高校1年生の頃は。


 高校2年生の春。桜が綺麗で、ポカポカ暖かくて、本当に美しい春の1日。彼女を含め数人の部活仲間と一緒に学校帰りにお花見に行きました。私の通っていた高校は、市内でも花見の定番である城跡のすぐそばにあったから。
 みんなはしゃいでいました。こぼれるように咲いていた花が、風に乗って舞い、ほろほろと散っていく様子にうっとりしました。
「昨日の部活で〇〇先輩がさぁ」・・・誰が話し始めた話題だったか。覚えていない。私には、どうでもいい、心の動かない話題だったのだと思うのです。



ふと、横を見ると彼女は焦点の定まらないぼーっとした様子で桜の木のほうを見上げています。気になって足を止め、やっぱり立ち止まっている彼女を見つめていると


「やだな」


と彼女がつぶやきました。
 聞いちゃいけなかったような気がして、慌てて他の友だちのほうに振り向こうとすると、彼女は私を見て「医者の娘だから医者ってあり得ないと思わない?」と。


・・・・・答えに困る私。


 そんなふうに、彼女と話すのは初めてだったからか、その問いがどういう意味なのか理解できなかったからなのか。とにかく、どうしたらいいか分からなかったのです。
 続けて彼女は「好きにしろって親は言うんだけれどね、何か無言の圧力というか、期待っていうか、プレッシャーというか、感じてしまうんだよね」って。


 多分、そんな言葉だったと思う。


「好きにしろって言うけれど、何が好きなのか、何がしたいのか、分からないから困ってる。それも親は知ってる気がするんだよね。だから、結局迷ったまま、とりあえず親が望むとおりの道を行くんだっていう、確信があるんだよ。きっと親には。本当は、『好きにしろ』なんて言って欲しくない。親はずるい。それで、いい親だって思ってる。本当は『何が好きなのか』を一緒に悩んでくれる親が良かった・・・・。」


 うーん。深すぎる。分かるけれど、分からない。分かろうとしても、彼女の悩みの神髄には触れられない、そんな感じがしました。そして、それは『彼女も知っている』気がしたのです。
どうして私なのかが一番疑問。もっと仲の良い友だちもいただろうに。


 けれど、その思いが「ぼくを探しに」だったのだということは、痛いほど伝わり、深い悩みがあったからこそ、あの絵本が彼女の心に響いたのだし、彼女の感想文には彼女の思いが込められていたのだと納得がいったのです。


 私は何と答えたか、覚えていない。多分、後腐れのないさらっとした受け答えをしたのではなかったかな?どう答えても彼女の力には慣れない気がして。それだけはハッキリ覚えているのです。


ずっと前の忘れられない一瞬の記憶。


 現在、koli太郎が自分の生き方を悩んでいるらしい。恋に進路に父親との関係。上がったり下がったりの不安定な成績と「なりたい自分」のギャップ。家業を継いでほしいという周りの期待。大好きなおばあちゃん(義母)からの「当たり前」の圧力。


「一緒に悩んでくれる親が良かった」


最近、私の心に響く彼女の声。
彼女は、結局医者にはならなかったそうです。
医学部に進学したはずなのだけれど。
彼女の自分探しはうまくいったのだろうか。ずっと気になっています。


親になって、読み返して感じること。
子どもは親の欠けた部分を補う「かけら」ではないということ。
もし、「かけら」ほどの大きさしかなかったとしても、「かけら」は「かけら」として「ぼく」とは別に存在しているのです。親が果たせなかった夢、親が望む人生の理想像を完成させるための「かけら」ではないのです。無理に欠けた部分にはめられて壊れてしまった「かけら」を見て、koli太郎を思いました。koli太郎はkoli太郎。親のために何かを補う存在ではないいうことを、つきつけられた感じがしています。


koli太郎の「自分探し」は始まったばかり。
そして私は、今日koli太郎にこの本を渡すつもり。
昔話をしながら、「一緒に悩む」覚悟を伝えたいと思っています。


後日談
「おぉパックマンみたいだ」と笑うkoli太郎。結局koli次郎も一緒に読み聞かせをすることになりました。
読んでいる間、笑ったり絵を指さしたりして笑っていたけれど、読み終わった後にkoli太郎のは言いました。
「この本で読書感想文書きてぇ!」
何だろう?デジャブか・・・・?。笑


こどもたちに幸せの記憶をおくろう
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