絵本の時間

幼い頃、読んでもらった絵本。内容はおぼろげになった本もありますが、忙しかった両親が寝る前に読み聞かせをしてくれる、短いけれど温かい時間は、一生の宝物です。そんな記憶を綴り、自分の子どもたちにも幸せの記憶を贈りたいと願うブログです。

ぼくを探しに


新装 ぼくを探しに
新装 ぼくを探しに
講談社


あらすじ
「ぼく」は、「何かが足りない。だからぼくは楽しくない」。「ぼく」は「かけら」を探して転がり続けています。合わない形や大きさの「かけら」を無理に欠けた部分にはめようとしても、うまくいきません。時には、「かけら」を壊してしまうことも。それでも「ぼく」は転がり続けます。欠けているのでうまく転がれず、立ち止まってしまうことがあるけれど。「ぼく」はみみずとおしゃべりしたり花の匂いをかいだり、蝶を見つけたりしながら、とにかく転がっていきました。
 ある日、「ぼく」はぴったりな「かけら」を見つけます。心から喜ぶ「ぼく」。でも「ぼく」は言います。「ぼく」は「ぼく」で「かけら」は「かけら」と。もしかしたら、ぴったりだとしても「きみがそうしたくないかもしれないしね」。
 ぴったりだけれど、「かけら」は「かけら」。「ぼく」の欠けた部分ではない「かけら」という存在です。「やってみたら」と「かけら」。それで、2人はピッタリと重なり、欠けたところのない「まん丸」になって転がっていきます。欠けた部分がなくなった分、とても速く、スムーズに転がります。だから、もう立ち止まることもありません。もう、何かをじっくり見ることもありません。だれかとおしゃべりすることもありません。
 「ぼく」はかけらと一緒に転がることをやめます。前のように立ち止まることのできる欠けたままの「ぼく」として、転がることを選びます。

絵本の思い出
 ずっとずっと昔、私が高校生だった頃、この絵本をテーマに読書感想文を書いた友だちがいました。彼女とは中学校から部活動が一緒で、時々一緒に帰ることもありました。特別仲が良かったというわけでもないのです。けれど、とても心に残っている人です。


 読書感想文コンクールの代表に彼女が選ばれたとき、私はとても悔しかったのです。だって、中学校の頃、私が選ばれない時はなかったから。だから、余計に気になって、彼女の選んだ「ぼくを探しに」を本屋さんで立ち読みしました。
 衝撃だったのは、これが絵本であったと言うこと。高校生の読む本としては、ビックリなくらい短い。そして、感想文の文字数より、絵本の本文の文字数のほうが少ない!この本で代表に選ばれるような感想文を書けるとは!


 けれど、その後、私はさらに衝撃を受けることになったのです。


 彼女は医者の娘。進路希望調査で某大学の『医学部』を希望していた。何の不思議も疑問もまわりの人は感じていなかったし、彼女も感じていなかったはずだと思う・・・。少なくとも高校1年生の頃は。


 高校2年生の春。桜が綺麗で、ポカポカ暖かくて、本当に美しい春の1日。彼女を含め数人の部活仲間と一緒に学校帰りにお花見に行きました。私の通っていた高校は、市内でも花見の定番である城跡のすぐそばにあったから。
 みんなはしゃいでいました。こぼれるように咲いていた花が、風に乗って舞い、ほろほろと散っていく様子にうっとりしました。
「昨日の部活で〇〇先輩がさぁ」・・・誰が話し始めた話題だったか。覚えていない。私には、どうでもいい、心の動かない話題だったのだと思うのです。



ふと、横を見ると彼女は焦点の定まらないぼーっとした様子で桜の木のほうを見上げています。気になって足を止め、やっぱり立ち止まっている彼女を見つめていると


「やだな」


と彼女がつぶやきました。
 聞いちゃいけなかったような気がして、慌てて他の友だちのほうに振り向こうとすると、彼女は私を見て「医者の娘だから医者ってあり得ないと思わない?」と。


・・・・・答えに困る私。


 そんなふうに、彼女と話すのは初めてだったからか、その問いがどういう意味なのか理解できなかったからなのか。とにかく、どうしたらいいか分からなかったのです。
 続けて彼女は「好きにしろって親は言うんだけれどね、何か無言の圧力というか、期待っていうか、プレッシャーというか、感じてしまうんだよね」って。


 多分、そんな言葉だったと思う。


「好きにしろって言うけれど、何が好きなのか、何がしたいのか、分からないから困ってる。それも親は知ってる気がするんだよね。だから、結局迷ったまま、とりあえず親が望むとおりの道を行くんだっていう、確信があるんだよ。きっと親には。本当は、『好きにしろ』なんて言って欲しくない。親はずるい。それで、いい親だって思ってる。本当は『何が好きなのか』を一緒に悩んでくれる親が良かった・・・・。」


 うーん。深すぎる。分かるけれど、分からない。分かろうとしても、彼女の悩みの神髄には触れられない、そんな感じがしました。そして、それは『彼女も知っている』気がしたのです。
どうして私なのかが一番疑問。もっと仲の良い友だちもいただろうに。


 けれど、その思いが「ぼくを探しに」だったのだということは、痛いほど伝わり、深い悩みがあったからこそ、あの絵本が彼女の心に響いたのだし、彼女の感想文には彼女の思いが込められていたのだと納得がいったのです。


 私は何と答えたか、覚えていない。多分、後腐れのないさらっとした受け答えをしたのではなかったかな?どう答えても彼女の力には慣れない気がして。それだけはハッキリ覚えているのです。


ずっと前の忘れられない一瞬の記憶。


 現在、koli太郎が自分の生き方を悩んでいるらしい。恋に進路に父親との関係。上がったり下がったりの不安定な成績と「なりたい自分」のギャップ。家業を継いでほしいという周りの期待。大好きなおばあちゃん(義母)からの「当たり前」の圧力。


「一緒に悩んでくれる親が良かった」


最近、私の心に響く彼女の声。
彼女は、結局医者にはならなかったそうです。
医学部に進学したはずなのだけれど。
彼女の自分探しはうまくいったのだろうか。ずっと気になっています。


親になって、読み返して感じること。
子どもは親の欠けた部分を補う「かけら」ではないということ。
もし、「かけら」ほどの大きさしかなかったとしても、「かけら」は「かけら」として「ぼく」とは別に存在しているのです。親が果たせなかった夢、親が望む人生の理想像を完成させるための「かけら」ではないのです。無理に欠けた部分にはめられて壊れてしまった「かけら」を見て、koli太郎を思いました。koli太郎はkoli太郎。親のために何かを補う存在ではないいうことを、つきつけられた感じがしています。


koli太郎の「自分探し」は始まったばかり。
そして私は、今日koli太郎にこの本を渡すつもり。
昔話をしながら、「一緒に悩む」覚悟を伝えたいと思っています。


後日談
「おぉパックマンみたいだ」と笑うkoli太郎。結局koli次郎も一緒に読み聞かせをすることになりました。
読んでいる間、笑ったり絵を指さしたりして笑っていたけれど、読み終わった後にkoli太郎のは言いました。
「この本で読書感想文書きてぇ!」
何だろう?デジャブか・・・・?。笑


こどもたちに幸せの記憶をおくろう
最後までおつきあいいただき、ありがとうございます。
ではでは(^_^)/~


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