絵本の時間

幼い頃、読んでもらった絵本。内容はおぼろげになった本もありますが、忙しかった両親が寝る前に読み聞かせをしてくれる、短いけれど温かい時間は、一生の宝物です。そんな記憶を綴り、自分の子どもたちにも幸せの記憶を贈りたいと願うブログです。

もう ぬげない

もう ぬげない
もう ぬげない
ブロンズ新社

あらすじ
「ぼく」は、お風呂に入るために1人で服を脱ごうとします。けれど、首のところが頭につかえて、どうしても、脱げない。いろいろ試行錯誤したけれど、脱げなかったモノで、このまま脱げなくてもいいんじゃないかと考え始めます。脱げなくても、きっと立派な人になれるとか、同じように脱げない子どもと友だちになったらこんな風に遊べるかもしれないとか。それもいいかも!なんて一時は思ったけれど、前が見えないのはやっぱり困るのです。だから、どうにか脱ごうと試みた結果・・・・上着はそのままで、今度はズボンが足のところで脱げなくなり、床に転がってしまいます。(挿絵が最高です!)
 と、お母さんが何やってんのよと言わんばかりに、「ぼく」を小脇に抱え、お風呂に連れて行き、あっという間に服を脱がせてしまいました。
一件落着・・・・。と思ったら・・・・。
 お風呂から上がった後、着替えをしようと上着に頭を入れたら・・・
今度は「頭が出ない」・・・。


絵本の思い出
koli次郎が何やら真剣に悩んでいます。「?」のぞき込むと、『もう脱げない』の絵本を開いていました。
母「どうしたの?」
koli次郎「これ、なんでボタン外さないんだろ?」


そうなのです。ボタンを外せば、きっとすんなり服は脱げるし、着られたはず、笑。
そして、挿絵のおもしろいことと言ったら!
何度見ても、吹き出してしまいます。
まったくもって、大人としてはかわいらしい笑えるシーン。
きっと、誰にでも覚えがあるから笑えてしまうのですよね。
けれど、koli次郎は真剣な顔です。
「ぼくも、こうなったときあるよ。笑わないで!」
koli次郎は、まるで自分の失敗を笑われたかのように感じているらしく
「全然おもしろくないっっ!」
と言い切りました。


小さな自尊心。


「ぼくもこうなったし、Aくんもプールの着替えでこうなったよ。Bちゃんもお着替え上手にできないよ。ぼくたちを笑わないで!」


いつの間にか、幼稚園児代表koli次郎に変身していたのでした。
「ちゃんと、うまくできるよ。みんな。教えてくれたらいいんだよ。笑わないで。」
ちょっと涙ぐんでいます。
「ごめんね。」
と母は謝りました。


とても、おもしろい絵本で、思いっきり笑えると私は思っていたし、実際、この絵本を初めてkoli次郎に読んで上げたときは、koli太郎とちびkoliと一緒に大笑いしていたのですが、いつの間にか「頑張れば、教えてくれれば、いつかきっと出来るんだ」と言う気持ちを踏んづけられるような思いをしていたのかなぁと思いました。それは、koli次郎の自尊心と、仲間意識が大きく成長した証拠。


 ごめんね。koli次郎。


「じゃあ、どんなふうに教えてあげる?」
と聞くと
「絶対ぼくは笑わない。『ボタンを外すとうまく出来るから、やってごらん』って言うの。それでも出来なかったら、『ボタンを外してあげようか?』って言うの。」


母はちょっと考えました。これって、「ノーマライゼーション」だねって。
障がいのある方、お年を召した方、そして小さな子どもに限らず、私たち「人」はオールマイティーではない。得意なこともあれば、不得意なことも人それぞれある。「できない」ことが特別視されず、社会の中で尊重されるのが当たり前だってこと。つまり、この場合は不得意なこと、できないことを他の人に助けてもらうか、自分の力で不足はあったとしてもやり遂げるかは、本人がまず決めるのだということ。自分の歩む道は自分で決められるのは、すべての人にとって「当たり前」でなくてはならないのです。


 私には痛い記憶があります。駅で車椅子の方が荷物を膝にのせて、エレベーターのボタンを押しているのを見かけました。ドアは開きましたが、荷物が邪魔して、なかなか前に進めません。ドアが閉まってしまうのでは?とハラハラし、延長ボタンを押し、親切のつもりで車椅子を押してエレベーターに乗せて上げました。すると、お若い女性でしたが
「結構です」
と、私を真っ直ぐに見ておっしゃいました。
親切心からやったことだったので、その反応にビックリし、次に居心地の悪い嫌な感情がわき起こってきました。


「せっかく、助けてあげたのに・・・」


もう何年も経つのに、なんだか釈然としない思いがありました。


それじゃ、なんと言ったら良かったのかなぁ、と。


koli次郎の言葉が、突き刺さります。
やり方を教えて、それでも出来なかったら「手伝いましょうか?」と相手に聞く。
言われてみれば、当たり前かもしれませんけれど、相手の意思を最大限に尊重する言葉だなと思いました。


私は、あの時何といえば良かったのか?
自問自答します。


「お困りですか?」「お手伝いしましょうか?」だったのかな?


「じゃあ、ママもkoli次郎が何か出来なかったり、困ったりしていたら、そうするね」とお話ししました。koli次郎は、真面目な顔で「うん、それでいい」と頷きました。


単純におもしろい、誰にでも覚えのある絵本。けれど、その絵本を通して、とても「当たり前」のことを、たった5歳の子どもに教えられた母でした。

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ぼくを探しに


新装 ぼくを探しに
新装 ぼくを探しに
講談社


あらすじ
「ぼく」は、「何かが足りない。だからぼくは楽しくない」。「ぼく」は「かけら」を探して転がり続けています。合わない形や大きさの「かけら」を無理に欠けた部分にはめようとしても、うまくいきません。時には、「かけら」を壊してしまうことも。それでも「ぼく」は転がり続けます。欠けているのでうまく転がれず、立ち止まってしまうことがあるけれど。「ぼく」はみみずとおしゃべりしたり花の匂いをかいだり、蝶を見つけたりしながら、とにかく転がっていきました。
 ある日、「ぼく」はぴったりな「かけら」を見つけます。心から喜ぶ「ぼく」。でも「ぼく」は言います。「ぼく」は「ぼく」で「かけら」は「かけら」と。もしかしたら、ぴったりだとしても「きみがそうしたくないかもしれないしね」。
 ぴったりだけれど、「かけら」は「かけら」。「ぼく」の欠けた部分ではない「かけら」という存在です。「やってみたら」と「かけら」。それで、2人はピッタリと重なり、欠けたところのない「まん丸」になって転がっていきます。欠けた部分がなくなった分、とても速く、スムーズに転がります。だから、もう立ち止まることもありません。もう、何かをじっくり見ることもありません。だれかとおしゃべりすることもありません。
 「ぼく」はかけらと一緒に転がることをやめます。前のように立ち止まることのできる欠けたままの「ぼく」として、転がることを選びます。

絵本の思い出
 ずっとずっと昔、私が高校生だった頃、この絵本をテーマに読書感想文を書いた友だちがいました。彼女とは中学校から部活動が一緒で、時々一緒に帰ることもありました。特別仲が良かったというわけでもないのです。けれど、とても心に残っている人です。


 読書感想文コンクールの代表に彼女が選ばれたとき、私はとても悔しかったのです。だって、中学校の頃、私が選ばれない時はなかったから。だから、余計に気になって、彼女の選んだ「ぼくを探しに」を本屋さんで立ち読みしました。
 衝撃だったのは、これが絵本であったと言うこと。高校生の読む本としては、ビックリなくらい短い。そして、感想文の文字数より、絵本の本文の文字数のほうが少ない!この本で代表に選ばれるような感想文を書けるとは!


 けれど、その後、私はさらに衝撃を受けることになったのです。


 彼女は医者の娘。進路希望調査で某大学の『医学部』を希望していた。何の不思議も疑問もまわりの人は感じていなかったし、彼女も感じていなかったはずだと思う・・・。少なくとも高校1年生の頃は。


 高校2年生の春。桜が綺麗で、ポカポカ暖かくて、本当に美しい春の1日。彼女を含め数人の部活仲間と一緒に学校帰りにお花見に行きました。私の通っていた高校は、市内でも花見の定番である城跡のすぐそばにあったから。
 みんなはしゃいでいました。こぼれるように咲いていた花が、風に乗って舞い、ほろほろと散っていく様子にうっとりしました。
「昨日の部活で〇〇先輩がさぁ」・・・誰が話し始めた話題だったか。覚えていない。私には、どうでもいい、心の動かない話題だったのだと思うのです。



ふと、横を見ると彼女は焦点の定まらないぼーっとした様子で桜の木のほうを見上げています。気になって足を止め、やっぱり立ち止まっている彼女を見つめていると


「やだな」


と彼女がつぶやきました。
 聞いちゃいけなかったような気がして、慌てて他の友だちのほうに振り向こうとすると、彼女は私を見て「医者の娘だから医者ってあり得ないと思わない?」と。


・・・・・答えに困る私。


 そんなふうに、彼女と話すのは初めてだったからか、その問いがどういう意味なのか理解できなかったからなのか。とにかく、どうしたらいいか分からなかったのです。
 続けて彼女は「好きにしろって親は言うんだけれどね、何か無言の圧力というか、期待っていうか、プレッシャーというか、感じてしまうんだよね」って。


 多分、そんな言葉だったと思う。


「好きにしろって言うけれど、何が好きなのか、何がしたいのか、分からないから困ってる。それも親は知ってる気がするんだよね。だから、結局迷ったまま、とりあえず親が望むとおりの道を行くんだっていう、確信があるんだよ。きっと親には。本当は、『好きにしろ』なんて言って欲しくない。親はずるい。それで、いい親だって思ってる。本当は『何が好きなのか』を一緒に悩んでくれる親が良かった・・・・。」


 うーん。深すぎる。分かるけれど、分からない。分かろうとしても、彼女の悩みの神髄には触れられない、そんな感じがしました。そして、それは『彼女も知っている』気がしたのです。
どうして私なのかが一番疑問。もっと仲の良い友だちもいただろうに。


 けれど、その思いが「ぼくを探しに」だったのだということは、痛いほど伝わり、深い悩みがあったからこそ、あの絵本が彼女の心に響いたのだし、彼女の感想文には彼女の思いが込められていたのだと納得がいったのです。


 私は何と答えたか、覚えていない。多分、後腐れのないさらっとした受け答えをしたのではなかったかな?どう答えても彼女の力には慣れない気がして。それだけはハッキリ覚えているのです。


ずっと前の忘れられない一瞬の記憶。


 現在、koli太郎が自分の生き方を悩んでいるらしい。恋に進路に父親との関係。上がったり下がったりの不安定な成績と「なりたい自分」のギャップ。家業を継いでほしいという周りの期待。大好きなおばあちゃん(義母)からの「当たり前」の圧力。


「一緒に悩んでくれる親が良かった」


最近、私の心に響く彼女の声。
彼女は、結局医者にはならなかったそうです。
医学部に進学したはずなのだけれど。
彼女の自分探しはうまくいったのだろうか。ずっと気になっています。


親になって、読み返して感じること。
子どもは親の欠けた部分を補う「かけら」ではないということ。
もし、「かけら」ほどの大きさしかなかったとしても、「かけら」は「かけら」として「ぼく」とは別に存在しているのです。親が果たせなかった夢、親が望む人生の理想像を完成させるための「かけら」ではないのです。無理に欠けた部分にはめられて壊れてしまった「かけら」を見て、koli太郎を思いました。koli太郎はkoli太郎。親のために何かを補う存在ではないいうことを、つきつけられた感じがしています。


koli太郎の「自分探し」は始まったばかり。
そして私は、今日koli太郎にこの本を渡すつもり。
昔話をしながら、「一緒に悩む」覚悟を伝えたいと思っています。


後日談
「おぉパックマンみたいだ」と笑うkoli太郎。結局koli次郎も一緒に読み聞かせをすることになりました。
読んでいる間、笑ったり絵を指さしたりして笑っていたけれど、読み終わった後にkoli太郎のは言いました。
「この本で読書感想文書きてぇ!」
何だろう?デジャブか・・・・?。笑


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こねこのぴっち

こねこのぴっち (岩波の子どもの本)
こねこのぴっち (岩波の子どもの本)
岩波書店


あらすじ
 ぴっちは、リゼットおばあさんの家で飼われているマリとルリの5匹の子ねこのうち、一番小さくて変わった子ねこ。飼い犬のベロが心配そうに見ています。なぜかというと、他の4匹の子ねこたちは毛糸にじゃれたり、箒によじ登ろうとしたり、元気いっぱいに遊んでいるのに、ぴっちだけは1人カゴの中で考え事をしているからです。
 ぴっちは、他の子ねこのようと同じように遊びたいとは思いません。まったく別のことがしたかったのです。ぴっちは1人、うちを出て行きました。
 外の世界でぴっちはいろんな動物に出会います。ヒヨコとめんどり母さん。歩き方のりっぱなおんどり父さんの真似をしてエサをつついてみたり、二本足で歩いてみたり。「ぼくもりっぱなおんどりになりたいな」
けれど、おんどり同士のケンカを見て、
「こんなことなら、おんどりになるのはやめた」
と、逃げ出します。
 さらに、やぎ、あひる、うさぎになろうとしますが、失敗。
最後はずぶ濡れになって、ウサギ小屋に閉じ込められてしまいます。
「にゃおにゃお」
と呼びますが、誰も気づいてくれず、怖い思いをしますが、犬のベロがおばあさんを起こしてくれて、助かります。
 しかし、ずぶ濡れのまま怖い思いをしたぴっちは、重い病気になってしまいました。


 おばあさんの温かい看病や、今までであった動物たちのお見舞いと優しい心遣いのお陰で、少しずつぴっちは元気になりました。
 ベロが押してくれる乳母車で外に出られるようになったぴっち。他の動物や兄弟たちは、ぴっちの笑顔が見たくて、何かしたいと思い、「おいわいのかい」を開催してくれました。


 元気になったぴっちは、もう子ねこ以外の何にもなりたいとは思いませんでした。


絵本の思い出
 今年のGW。わが家では大事件がありました。ちびkoliが「学校に行きたくない」宣言をしたのです。
 久しぶりに全員がそろった夕食、珍しくおしゃべりなちびkoliが大人しくて、気にはなっていました。けれど、突然「学校に行きたくない」と言ったっきり、「わーん」と大声で泣き出した娘に唖然。
 正直に申しますと、ちょっとしたいざこざはありましたが、娘ちびkoliは私とは異なり、お友達に恵まれ、今までお友達関係に悩んだコトなんてなかったのです。親が知っている限りは。どちらかというと、悩んでいる友だちに頼られ、意見を求められ、本人は気がついていませんでしたが、お友達関係では大切にしてもらっている恵まれた存在でした。
 聞けば、小学校以来仲良しだったAちゃんとKちゃんと3人でクラスの係をするようになったのだけれど、2人は中学生になってから、ちびkoliを除いて2人で行動することが増え、係の仕事もちびkoliに押しつけて何もやらないのだと言うのです。
・・・いつの時代も女3人って難しい。
それに、中学生の女子ってトイレも教室移動も、固まって移動みたいな雰囲気があり、グループに所属せずに1人で行動していると恥ずかしかったり、切なかったり、挙げ句の果てにはかわいそがられてしまって、嫌な気持ちになったり。
あぁ、そういうことかぁ。母は思いました。


「なんで、私のこと避けてるのかわかんない。」
「最初AちゃんはKちゃんのこと無視しようって言ったのに。ちびkoliは『嫌だ』って言ってKちゃんのこと守ったのに。なんで、私がこんな思いしなくちゃいけないの?」


大人から見れば、小さなこと。けれど、たった十数年しか生きていないちびkoliにとっては大問題だったのですね。
ひとしきり泣き終わるまで、家族全員フリーズ。とにかく、シーンとしたダイニングでちびkoliが泣くのを見ていました。
koli次郎も悲しそう。何だか分からないけれど大好きなお姉ちゃんが泣いています。
koli太郎は怒っています。「ちびkoli何も悪くないじゃん。オレ先生に言ってやろうか?」


ぱぱkoliは言いました。「それってちびkoliの本当の友だちなのかい?」
・・・・・・。


夜、「こねこのぴっち」を持って、ちびkoliの部屋へ母は行きました。
布団に頭まで隠れてしまっているちびkoliに読んで聞かせたかったのです。


お話をした後「感想は?」と聞くと「別に・・・。」
どうも怒っているらしい・・・・。だれも分かってくれないことに怒っているのかな。


母は、なるべく落ち着いて話しました。
 ぴっちは、ずっと兄弟と同じになれない「自分」を感じてた。だから、ほかの何者かになろうと外の世界に出て行くけれど、結局自分以外の何者にもなれないし、ならないと決めたのね。外でであった動物たちは素晴らしいけれど、病気になって戻ってきたとき、おばあさんも、「自分とは違う」って感じてた兄弟たちも、温かくて、優しくて。そういう関係の中に生きていた「自分」に気がつくのね。だから、ぴっちは「自分」であることが一番幸せだって思ったんだと思う。
 ちびkoliは、係の仕事を誰かに押しつけるのは嫌で、だれかを仲間はずれにするのも嫌で、自分の思ったとおりに行動したのでしょ。けれど、自分らしく振る舞った結果、相手に理解されなくて苦しい思いをしているんだよね。でも、ちびkoliは、他の誰かにはなれないんだな。ちびkoli以外の誰かにはなれないでしょ。
 それに、ちびkoliが泣いたとき、自分のことではないのに、koli次郎が一緒に悲しくなったり、koli太郎が怒ったり。ちびkoliのこと、全部は分からないけれど「寄り添いたい」って思ってくれる兄弟がいる。お話ししてくれるパパがいる。みんな、ありのままのちびkoliが大好きなんだよ。
 学校ではどうなの?だれも、困っているちびkoliを助けてくれる人はいないの?
「・・・・いる。『大丈夫?』『一緒に行こう』って声かけてくれる人。たくさんいる。」
その人たちは、きっとちびkoliのつらい気持ちに気づいてくれたんだね。できれば、ちびkoliのために何か行動したいって思ってくれたんだよね。それって、すごいことだと思わない?そうやって、自分らしくしていても、周りに思いやってもらえる「自分(ちびkoli)」だってことがステキだわ。そういう温かい関係の中にいる「ありのままの自分」に気づいて欲しいなぁと思う。
 お互いに辛いときに寄り添ったり、率直にだめ出しできたり。「その人のために」行動できてしまう関係って、とても幸せなことだと思わない?「自分らしくない自分」でいなくちゃいけない関係は、決して幸せなコトではないと思うの。


ちびkoliはだまっていました。


そして、ポツリ。「私は私らしくしていていいの?」と。


そして、「でも本当の自分がよく分からない・・・いいな。ぴっちは。」


今、ちびkoliはAちゃん、Kちゃんともお話はするけれど、「幸せな関係」の友だちの存在に気づき、毎日学校に通っています。ぴっちが役に立ったのか、立たなかったのか。でも、私の本棚の「こねこのぴっち」は、今ちびkoliの本棚にあります。
ちびkoliの「自分」探しは、まだまだ続いていくのでしょう。「自分以外の何者でもない自分」を探して、少しずつ大人に近づいていくのだなぁと感じています。


後日談(おまけ)・・・・
 koli次郎はたった5歳ですが、大好きなお姉ちゃんが泣いたことが、よほどショックだったのでしょう。ことあるごとに、お姉ちゃんの顔をのぞき込み、「しわよせ?」と聞くようになりました。ん?「しわよせ」って何?
  分からず、みんな「うん、そうそう」なんて流していたのですが、最近になってようやく何が言いたかったのかわかりました。
「幸せ?」と聞きたかったようです、笑。



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