絵本の時間

幼い頃、読んでもらった絵本。内容はおぼろげになった本もありますが、忙しかった両親が寝る前に読み聞かせをしてくれる、短いけれど温かい時間は、一生の宝物です。そんな記憶を綴り、自分の子どもたちにも幸せの記憶を贈りたいと願うブログです。

ぼくとかあさん

ぼくとかあさん
ぼくとかあさん
金の星社


あらすじ
熊の「ぼく」と「かあさん」は2人暮らし。けれど「かあさん」は「けっして ぼくをひとりにはさせなかった」のです。貧しいけれど、愛情たっぷりに育てられた「ぼく」。みんながかわいい長靴を買ってもらえば、「ぼく」も買ってもらえたし、早く走れる靴をみんなが持っていれば、「ぼく」も買ってもらえました。さみしがり屋で泣き虫の「ぼく」を世界中で一番優しく育ててくれた「かあさん」。
 「ぼく」は勉強を頑張り、大人になり、都会へと出て行きます。最初はホームシックになって「かあさん」に電話をするたび励まされる「ぼく」。けれど、都会の生活に慣れた頃、たびたび入る「かあさん」からの電話に、「今、忙しいから」と電話を切ることも増えた「ぼく」。「ぼく」は、都会の生活が楽しくなってきたのでした。
 「かあさん」から帰るように再三の電話があって、やっとふるさとに帰った「ぼく」は不平を言いながら家路につきます。「こんなところで、よくもそだったもんだ」といいながら。
 家に帰ると、玄関にはたくさんの靴が並んでいました。小さいモノから大きいモノまで・・・・。「さみしいだなんていって。たくさんお客さんがきているじゃないか!」と不平をいう「ぼく」。でもよく見ると、それは、「ぼく」が小さかった頃から、「かあさん」が一生懸命に働いて買ってくれた「ぼく」の靴なのでした。その時「ぼく」は気づくのです。
「かあさん」はけっして「ぼく」を1人にはさせなかった。
それなのに、
「ぼく」は「かあさん」を1人にした、と。


絵本の思い出
 私には、決して忘れられない悲しい思い出があります。それは祖母のこと。忙しい両親に代わって、時には優しく、時には厳しく、愛情をたっぷり注いで育ててくれた祖母です。若い頃教師をしていた祖母は、しっかりしているけれど、お茶目な人で、良く冗談も言って私を笑わせました。
 私は、大学生になる時に初めて、ひとり暮らしを経験しました。この絵本の「ぼく」がそうだったように、私も最初の1ヶ月は家族に会えないことが寂しくてたまらず、ホームシックになりました。けれど、友だちも出来て遊び方も覚えてしまった私は、いつの間にか「家族と会えない1日」が当たり前になっていました。とにかく、毎日が楽しかったです。
 けれど、大学3年生の秋、今まで一度も自分から電話をしてこなかった祖母が電話をしてきました。唐突に「いつ帰れる?」と聞くのです。私はちょうど新学期が始まる前でお休みだったのですが、「バイトあるから、そのうち帰る」と早々に電話を切ってしまいました。
 その1週間後、父から電話がありました。「すぐに帰れるか?」というのです。「ばあちゃん、実は1週間前に入院して、ご飯全然食べなくなった。お前が来て食べろと言ってくれたら、少し元気になるかもしれないから」というのです。私の父は、私に決して無理を言う人ではありません。だから、帰って来いなんて、私の都合も聞かずに言う人ではないのです。その時、私は悟りました。祖母は、もう生きることが出来ないのではないか、ということ。「明日帰る」と答えて、電話を切りました。何も分からないけれど、涙が溢れてきました。
 翌日、目の当たりにした祖母は、まるで別人でした。既にモルヒネを投与されており、目はうつろで、時々意識が戻ると訳が分からないことを口走ります。私は、トイレに駆け込み、嗚咽しました。本当にそうするしかなかったのです。自分の予感が当たってしまったこと、祖母は私に会いたいと思ってこっそり電話をかけてきたのに取り合わなかったこと、小さい頃祖母に遊んでもらったこと、一緒に料理をしたこと、運動会で応援してもらったこと、大学生にもなった私に小さなお財布から取り出したお札をいつも「お小遣い」といってくれたこと。頭の中をグルグル回って、どうしようもなかったのです。


 祖母は「肝臓癌」でした。腰が痛いと言って整形外科に若い頃から通っていたので、いつもの腰痛だろうとみんなが思っていたのでした。けれど、痛みがひどくなり受診したところ、すでに全身に転移しており「余命2週間」と父は宣告されたそうです。本人には知らせないことにしたと父は言っていました。でも、私は、きっと祖母は自分の死期が分かっていたのだと知っていました。我慢強い人だったけれど、どんなに苦しかったでしょう。どんなに切なかったでしょう。その壮絶な痛みの中で、入院する前日に私に電話をしてきたのです。
 あんなに愛情を注いでもらったのに、あの時初めて電話をくれたのに、きっと私に死ぬ前に一目会いたいと思ってくれていたのに、私はその愛情に応えなかった。
 罪滅ぼしのように大学を休み、毎日看護しました。ふと正気に戻った瞬間、ポツポツと話す祖母は、「学校行かなくてもいいのか?」と何度も私に尋ねました。
 いまだに思います。なんて、私は愛されていたのかということ。祖母は余命宣告の時間を遙かに超え、2ヶ月の間、私をそばに置いてくれました。


 私は、父にまだ祖母が自分の死期を悟っていたということを話していません。祖母が亡くなってから20年も経つというのに。祖母からの電話のことは話せずにいます。多分、これからも話さないでしょう。父は祖母に死期を悟らせずに眠るように逝かせてやれたことに疑いを持っていないからです。そうしてあげたかったのは、父の祖母に対する愛情。だから、そう信じさせておきたいのです。


 これも私の父に対する愛情。


 愛とはつらいモノだなぁとつくづく思います。そして、愛は学ばなければならないモノだなぁとも思います。私は二度と取り返しが付かない失敗から、学びました。それは「私は家族に愛されていて、私は家族を愛している」ということ。「今日が最後のように大切に生きる」ってコト。そして、「その会話がその人との最後の会話かもしれない」というコト。大げさだけれど、そう分かっていたら、きっと、私はあの時の祖母の電話に別の言葉を返していたに違いありません。


 「祖母は、私を決して1人にはしなかった。それなのに、私は祖母を1人にした」


この絵本は、私のつらい思い出を呼び起こし、「1日1日を大切に生きなさい」と思い起こさせる絵本なのです。

私には家族以上に大切なモノはないと気づかせてくれる絵本。
困ったなぁ。泣けてきました・・・。


最後に麻央さんのご冥福をお祈りします。
私も麻央さんのように「愛」を伝えることのできる人生を歩みたい。


悲しい気分になり、今まで誰にも話したことのない思い出を長々と書きました。
とりとめなくて、申し訳ありません。
そして、私の懺悔を最後まで読んでくださった方ありがとうございます。

子どもたちにしあわせの記憶をおくろう





にほんブログ村